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「寛政重修諸家譜」によれば、南部信直は豊臣秀吉より雲次の太刀を拝領したと見えます。聞く処によれば諸説があるとのこと。具体的にはどのような説があるのでしょうか。
相馬俊司
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三十九代利済以降、盛岡南部家の双鶴紋の羽数は外翅十枚・中翅八枚・内翅四枚といるとのこと。最終的に現在南部家が使用している正式な双鶴紋の形と思いますが、盛岡市中央公民館所蔵、南部利昭氏寄贈の家紋印判を見ますと、外翅十一枚・中翅九枚・内翅四枚の様に見えます。枚数はどの様に数えるのでしょうか。
盛岡南部家の各分家、遠野南部家及びその分家の鶴紋も意匠が異なる事と思いますが資料としてありそうなものの確認の術がありません。確認できる範囲で教えていただけないでしょうか。
東井 茂
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九戸村、曹洞宗金花山源福寺の寺伝(由緒)に『安政二年火災により堂宇を失い、十九世耕月喬樹和尚の代に、戸田沢内の豪族目時勘太夫(月舟江心居士)の開基によって現在の戸田字舘に遷座した』とあります。一方『参考諸家系図』目時によれば、四代正吉は目時勘太夫(重信公に仕える)、月舟江心信士(居士ではない)、東顕寺とあり、戒名はほぼ同一ですが寺伝とは年代が合いません。七代朝正も目時勘太夫とあり、両勘太夫を混同している。或いは年代か人名に錯誤があるのでしょうか。八戸領成立前の事ならば辻褄が合う気がするのですが。
なお、九戸郡戸田村は八戸領のはずですが、目時隆之進家は藩政期に九戸郡戸田村を知行していたのでしょうか。それから戸田館は九戸の役後も破却されずに使用されていたのでしょうか。
東井 茂
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沼宮内代官所は、自分の記憶が正しければ、既に元禄頃(記録名を忘失)には存在していたように覚えておりました。しかし、 岩手町の歴史を書いた本によれば、 沼宮内代官所の設置は享保二十年とあります。やはり、私の記憶違いだったのか、また享保二十年に設置とする記録は何に拠るのか、お教えいただけるならば幸いです。宜しくお願い致します
村井修平
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今度、『岩手郡寄木村図』(明治5年9月)を見つけました。
土地所有者の中に、南部康直という人名が確認されます。
つきましては南部康直という人物に関連して以下の事柄につき教えて下さい。
1)南部康直家の家筋について
2)南部康直家が寄木村を領有したいきさつ
3)南部康直の生没年は?
東本茂樹
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南部藩家老席日誌「覚書」の中で解かりかねる字句がありますのでお教えいただきたいと思います。
明治元年七月十日の項には用人中島源蔵の自殺について報告があった旨を述べた次に「右ニ付、親類組合共恐入差扣願出、何も不及其儀旨、御目付江申渡之」とあります。
ここで使われている「組合」の内容が理解できず おおよそ、血縁関係があり連帯責任を負う共同体、もしくはお役目上で連帯責任を負う単位ではないかと推定しますが如何でしょうか
八重樫民本
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私の祖母は、明治時代に従兄弟同士で岩手から北海道富良野地方に入植し 農業を初めた様です。幼少の頃、岩手から津軽海峡をこえて荒野の地を開拓した苦労話をよく聞かされました。そのことから我が家の日戸姓について由来を調べています。何か詳しい情報があればお手数ですが教えていただきたくメールしました。 宜しくお願いします。
日戸俊男
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江戸・白川間の街道は幕府の管理下にあり「奥州道中」と知られておりますが、白川以北、盛岡までの街道名は「奥州街道」とか「奥道中」「盛岡道中」などと言われています。何れが正しい街道名でしょうか。
渡辺哲也
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近世こもんじょ館に、盛岡藩で明治維新後に苗字を改めた人達に触れて、士族明細帳によれば、本館矢柄ー稗貫政熹と書かれてます、矢柄と政熹は同人物と考えて良いのでしようか。私が調べたのですが、どうも矢柄は廣武に見えます。
矢柄と政熹は確かに同石数で同時代の人物です。矢柄は本館金吾系で政熹は本館甚助系に見えるのです。どうでしょうか。
四市 政
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1.参考諸家系図(印刷版)10の P.341の下田河内家を見ますと、同ページの「長栄」事績には「元禄十六年四月、弟栄寧に五十石を分地云々…」とあります。しかるに、我が家の系図では、
2.長栄は、「元禄十年正月二十四日卒壽六十六」とあって、次の代の「以壽」が元禄十六年九月十九日弟栄寧に平舘村五十石配分したようになっています。つまり、
3.参考諸家系図(印刷版)10 では、「以壽」の名前が出てこないのです。「以壽」不存在は、単なる印刷ミス(原稿脱落など)なのか、あるいは当時何らかの事情があって参考諸家系図の作者が存在を伏せたのでしょうか ?
何かお判りでしたら、教えて下さい。
下田亮一
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盛岡藩の「御検地仕様御定目」を見ているのですが、」百姓屋敷持地に不応、広き屋敷は竿入高に入申定」とあります。課税対象なのですか。非課税対象なのですか。
もし、お解りなら教えて下さい
柳田真雄
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役馬という用語は北家の御次御用留帳に見えるので、『南部盛岡藩用語辞典』を見ましたところ、遠野古事記一巻に「御家中三拾石以上並寺院へも役馬持候様にと被仰付(中略)遠野に御逗留の節、於桜馬場度々、役馬御覧被成候(下略)とある。公用に際して用うる馬のことであろうか。藩主用命に従って用いた馬であろうか」とありました。公用とは軍役に限定しているのか。伝馬も該当するのだろうかという疑問が湧いてきました。見解がおありなら教えて下さい。
中村次男
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南部藩に伝わっていた武術として柳生流(新陰流)剣術があった
との事ですが、現在伝承されている方は県内にいらっしゃいますでしょうか。また伝書類等は図書館等に残っていますでしょうか。もし何かご存知でしたらお教えください.よろしくお願いいたします.
佐々木麻雄
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「きろく解読館」の「盛岡藩士の家系」に記載されている「下田勘解由家」について気がついたことがあります。「下田家の嫡流直勝に一子なく、…」の部分ですが、当家の系図には 「直勝無男子故養 宣親 為嫡子…」とあって、直勝の長女には 「女子 宣親妻 」とあります。したがって、「男子無く」ではなく 「一子なく」とする何らかの資料が存在するのでしょうか。角川の「岩手県姓氏・歴史人物大辞典」を見ての感想でもありますが……。
下田亮一
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会員でない場合は入会案内等以外の問合せについてお答えいただけないのでしょうか。また、先祖探しの件についてQアンドAにおいて致しかねる旨の掲示がありましたが、会員以外の方のそういう問い合わせは受けてはいないのでしょうか。それとも会員を含め、一切対応致しかねるということでしょうか。当方、先祖と家紋を調べております。その上でこのサイトが有効な調査手立てとなっております。
楢山隆順
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埼玉県の三峯神社に南部重直が寄進したという大きな梵鐘があります。三峯神社に関連する記録を見ていました処、重直の法名を「即性院殿前城主太守三峯宗元大居士」と記載されておりましたが、近世こもんじょ館には「即性院殿前山州太守三峯宗玄大居士」とありました。前城主太守と前山州太守、宗元と宗玄、どちらが正しいのでしょうか。
工藤利栄
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信恩の生母は切支丹お連と云われております。お連の父は切支丹の罪で刑場の露となりましたが、そのさらし首を刑場から盗み出し、円光寺で弔ってもらったと聞きます。その刑場とは何処にあったものでしょうか
木村玲子
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小生の父方の曾祖父に、四戸次郎義信というものが居ります。墓誌には概略次のようにあります。「翁は文政九年花巻生まれ。養父は四戸陸朗。十八にして江戸に赴き九年間一刀流を学ぶ。かって慶応三年藩主が執政楢山佐渡を上京せしめたとき、翁は目時貞次郎と武者頭にあずかり大いに国事に尽悴す。明治二十七年五月病没。」また家族の伝では、「秋田との戦では橋場口に馬に乗って出陣し、銃弾の破片で左目に負傷してしりぞいた。」と聞いております。下記の二点についてご教示下さい。
八重樫民本
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南部信直が幼年期に閉伊郡岩泉町小本に居住していたという話を耳にします。本当でしょうか。
佐々木勝夫
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南部藩の大工について調べております、以下の事柄についてもし何かご存知であればお教え下さい。
阿部雅人
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