「盛岡五山(盛岡五ヶ寺)」については、一般的に知られるものと認識していましたが、何時の時期に誰によって決められたのか判然としません。文書等の記述についても、ご存知でしたらご教示いただけないでしょうか。 文化地層研究会事務局 金野 万里

今は、「よねた」と言いますが昔は、「まいた」と言ってました。父から戸籍謄本をもらい家系を調べていたら貴殿のホームページに出会いました。
高祖父に「米田勝知」、曾祖父に「米田勝吉」=曾祖母に「チカ」(老中 櫻庭陽之輔の三女)の直系にあたります。「勝知」より上の祖先を知りたいのですがなかなか書いてる本などが見つかりません。
もしご存じであればお教え頂きたくメールいたしました。
名前から「米田武兵勝英」そして「武兵」が用人の時、櫻庭陽之輔が老中であることから「武兵勝英」の直系で「米田忠勝」「米田貞機家」につながるのでないかと推測しております。
ご存じであればよろしくお願いします。
米田一夫

南部藩について調べていてこちらのホームページに辿り着きました。
あらゆる角度からの資料が集められた素晴らしいサイトですね。
二三、お聞きしたいことがあってメールいたしました。 こちらのサイトのタブ横に表示されるファビコンは、なぜ九曜紋ではなく七曜紋を使用しているのでしょうか?(そしてなぜ通常の七曜紋より30°ほど回転させてあるのでしょう?) 南部藩の中には七曜紋を用いた圓子家などもいたそうですが、南部家の定紋にもなっている九曜のほうが印象が強かったため不思議に思いました。 また南部藩では九曜紋・七曜紋を家紋として用いていた家が多く見つかりますが、八曜紋・六曜紋を使用していた例はないのでしょうか? お答え頂けたら幸いです。
斎藤

『盛岡藩雑書』正保四年七月廿日の条に「一、今朝上林進上夏切一壷は方長老へ被遣、使者ニて御礼 永井仙斎進上夏切一壷は栗山大膳へ被遣、書状并同名大吉を以御礼被申上」との記録があります。これは,盛岡藩から方長老と栗山大膳へお茶を届けた記録ででないかと思います。しかし,記録中の「一壷」について「一壷、一坪で高級反物の一寸四方のこと」と解説があり,頭が混乱しております。
一寸四方の高級反物を贈ることに何の意味があるのか,お分かりであれば是非教えて下さい。
浅井勝美

添付画面の古文書(写真割愛)があります。
この様な古文書(表題「田形年季相渡申手形之事」)は 正(役所)、写(当事者)の2通が存在するのでは と思います。とすると 岩手県内のどこかに、同じ物がもう一通存在すると考えて良いのでしょうか?
* 南部藩と仙台藩の境に存在した某地区の 数十点の村方文書です(田畑手形、年代がずれ、同一地域です)
古谷義昭

御樽一荷とか御樽二荷という記録を目にすることがあります。一荷とか二荷は樽を数える単位と思いますが、どのような単位でしょうか。 林 克美

道普請の記録に
 堰幅三尺深さ弐尺掘上、砂利置之仕様
 一、三百疋砂り附馬
  但し壱升ニ付三疋積り 壱間ニ付半舛置
 (中略)
 一、拾壱人御人足
  但し壱人ニ付四間掘

 質問ですが、幅壱尺あたりの土砂とは、どれだけの重量の土砂をいうのでしょうか。
吉田英雄

私は滋賀県に居って南部を名乗っております。東北の「南部氏」が滋賀県に移り住んだことが分かる史料がありましたら、ご紹介いただきたいと思います。 南部雅昭

 南部晴政について、晴字は室町将軍足利義晴の偏諱拝領説と武田信玄晴信から受けたとする説があるようです。どのようなものか教えて下さい。 菊池 茂

『青森県史』資料編近世? 42頁に ?「天正十九年(一五九一)六月十五日、淺野長吉、名久井城主東(あずま)氏へ仕置軍の下向を報じ、九戸一揆の出陣を促す」とある一方、同書48頁では、?「七月十七日、淺野長吉、九戸・櫛引(くしびき)の討伐を命じ、豊臣軍の葛西・大崎・和賀・稗貫への進出を東直義(ひがし・なおよし)へ報じる」とあります。?、?とも同族とおもいますが、?では「あずま」、?では「ひがし」とルビを振っております。現在、身の回りには「あずまさん」も「ひがしさん」も居ります。しかし、名久井城主であった東氏と特定する場合、何れか一方に誤りがあるのではと思います。どちらが正しいのでしょうか。 福士知義

三戸城代について教えてください。 藤本周平

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)盛岡藩によれば、歴代藩主の内、6代 南部大膳亮利幹の名乗りを(としとも)、10代 南部大膳大夫利敬の名乗りを(としのり、トシヨシとも)としてあります。『南部史要』は、利幹を「としもと」、利敬を「としたか」としてあります。『南部史要』は発行所「旧盛岡藩士桑田」、平成10年10月30日復刻版発行によっております。あつかましいことですが、どちらが正しいのか、論拠(出典)なども示してお教えいただけないでしょうか。 菊池邦夫

 遠隔地に火急を伝達する手段として「のろし」が使用されていた例は、全国的に多くあるようです。
 江戸時代に盛岡藩でも、そのような事例は有ったのではないかと思いますが、記録上で、あるいは遺跡など確認出来るでしょうか。
 記録上にあると仮定して、その際、使用している文字は「烽火」「狼煙」。何れでしょうか。
室木国康

花押と黒印を表示する「重判」は、何と読むのでしょうか、
調べたのですが、明確な説明は、辞典でもPCでも出てきませんでした。
高橋良志夫

先祖は奥州仕置により改易された和賀氏の旧家臣で南部氏に仕えたようです。しかし、南部氏は対立関係にあった和賀氏の旧臣が南部家への出仕が、はたして可能だったのでしょうか。存在したとするならば、関連する記錄など教えて下さい。
天野 正寛

南部領に狭布郡長内村という所があったと聞きました。長内村と言えば岩手県久慈市在名の長内村が連想されます。久慈市地方を狭布郡と称した時代があったのでしょうか。

三上三敏

南部領を十郡とするものと九郡とするものがあるようです。どちらが正しいのでしょうか。 池田修司

畑地を数える単位として一切、二切と記録するものがあります。畑一切とはどの程度の地積を言うものでしょうか 内田真一郎

私の4代前になるのですが士族明細帳では「川口儀平」とあります。一方「参考諸家系図」では「川口瀬右衛門家」とあります。「儀平」は「儀右衛門」かと思いますが、川口瀬右衛門と儀平の続柄はどの様な関係でしょうか。

川口昭彦

「寛政重修諸家譜」によれば、南部信直は豊臣秀吉より雲次の太刀を拝領したと見えます。聞く処によれば諸説があるとのこと。具体的にはどのような説があるのでしょうか。 相馬俊司
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